Essay



~バターケースと日本人~

その前に、ひざびさウサちゃん。まあまあの出来だろ?


さてバターケース。それまで「切れてるバター」みたいなのを使っていたわけですが、扱いが面倒なのと高いので、バターケースにブロックバターでいこうと考えたんだ。

で、スーパー。バターケースはあるにはあったが、なんだか妙な型のようなものがついていて、そのミゾに沿ってナイフを入れるとパン一枚分の同じ大きさのバターになるらしい。

ついにここまで馬鹿は進んだかと愕然とした。たかがバターを使うときまで『誰かが決めたスケール=尺度』に従ってしまう愚かさ。パン1枚と言っても6枚切りと4枚切りではパンのボリュームも違えば、角食(=四角い食パンでアメリカパンと言ったりする)と、山食(=いわゆるイギリスパン)とでは大きさも違えば、塗り方だって人それぞれ。

パン1枚分のバターはこの大きさと、どっかの誰かにそこまで決めていただく必要はないわけですよ。大きなお世話もはなはだしい。

アホらしいので蓋のできる四角いケースを買ってきた。おそらくはお弁当のおかず用だと思うのですが、仕切りもなければ目盛りもない。余計なものが付いてないから使いやすいし洗いやすい。
日本人は終わったと思いましたね。何が正しいかではなく何が決められているかに従ってしまう。くだらない話です。



~リンゴもそうだが~

ネットで『ウサギリンゴ』と検索してごらんなさいな。おなかも背中もガタガタの不細工リンゴがわんさか出てくる。料理教室とやらで紹介しているウサギリンゴも、俺からすれば誰にでも切れるもの。独創性が感じられない。

独創のためには、まず俺にしかできないこと、俺にしかできないもの、そうしたものにこだわりを持っていかないと、いつまで経っても何もできない。
それは包丁の切れ味から文章の冴えにまで共通するものだと考えている。単なるリンゴが俺を通過することで、誰にでもできないウサギリンゴに変身する。単なる官能小説が俺を通過することで、もっと深く食い込んでくる人間描写に変身する。どっちも同じことだと思うんだ。

マシンでコーヒーをつくり食器洗い機で一律に洗うといったところからマニュアル発想が生まれてくる。ありきたりというやつだよ。マニュアル化された挨拶が嫌いだ。ろくに顔も見ないまま、入店の気配で『いらっしゃいませ』と言われたって嬉しくねえ。

ろくに読者の顔を見ずに『さあ官能小説です』と言われたって読む気もしねえ・・というのに似てるとは思わないか。それでは潤文学ではない。

えー、ということを考え続けて、もがき苦しんで来たわけさ。独創性とは何か? ちょっとやそっとでできることじゃねーだろう。俺のサイトでは、(ブログもそうだが)、書きはじめて放置することがしょっちゅうある。次をひらめき、そっちを先に書いたほうが独創につながると思うからであり、サイト運営としては、なんとも勝手気ままなわけなんだが、結局その方が先々楽しんでもらえると思うからだ。

まあいい。それにしても、おなかも背中もガタガタのウサギリンゴは、もはやウサギじゃないんだよ。イノシシリンゴとか、(イノシシに失礼な話しだが)、まあ名と姿がミスマッチもはなはだしい。



~見習い~

これは、いい言葉だ。見て習う。寿司屋に行って板さんが柳刃でちょっとしたことを
する。僕は客でそれを見ている。包丁の角度だったり手首の向きだったりするのだが、
こうしたことを『どう見るか』で変わってしまうものなんだ。

見て習う=見習い=それはつまり『盗む』ということ。技術を盗む。なるほどと気づく
ことがあり、だったらだったらやってみようとする。それで買ったのが柳刃包丁。↓

関の孫六の金寿という包丁だが、ステンの安物。板さんが使う青鋼の本焼きなど手の
出る金額ではないし、その道ではないわけだから包丁に対して失礼というものだろう。
21センチ柳刃と12センチペティナイフの対比。
洋刀は使ってきたが和包丁にはなじみがなかった。洋刀は両刃。柳刃は片刃でめち
ゃめちゃ切れる。

しかし失敗。21センチは短かった。最低でも24センチ、できるなら27センチ~は欲し
い。こうしたこともやってみないとわからない。板さんのやることを真剣に見るようになる。
切られた刺身や野菜を睨みつけて切り方を知る。

あとは練習あるのみ。板さんにできて俺にできないはずがない。おぅ!

いろいろやってみて少しはできるようになってきて、いままさに長い柳刃、それと薄刃
包丁が欲しくなっている。薄刃はカツラ剥きに使う。三徳でも菜切りでも、牛刀でもでき
るのだが、薄刃はぜひほしい包丁だ。(これがマニアックで高いのよ! くそっ!)

スターウオーズを見てSFを習う。同じことだと知るわけだね。



~珈琲タイム~

コーヒーと珈琲は違うものだ。



急須みたいなドリップポット。ほぼ1人用。急須サイズの小さなものだ。極細の湯が得られる。火にはかけない。別のポットに湯を沸かしておいて沸騰した湯を注ぐと温度が下がってちょうどよくなる。(85~90℃)

マシンで淹れるとコーヒー。こうした器具を使って、まったり淹れると『珈琲』になる。豆は挽かずに買ってグラインダーで好みの粗さに挽いて使う。フィルターはネルを使いたいところなのだが布フィルターは扱いが面倒なのと、家でたまに使う程度だと脂がまわってうまくない。よってペーパーフィルター。こればかりはしょーがない。

で、ドリッパーにはハリオ。カリタ、メリタ~そのほかとドリッパーにもいろいろあるが、僕はハリオがいいと思っている。湯の流れがネルフィルターに近く、軽くしたいとき重くしたいときハリオならどうにでもなるからだ。

豆。だいたいがブレンドなのだが高いから美味いとは言えない。そこらのスーパーで聞いたこともないメーカーの安いのを買ってみて、これが美味かったりする。
これもまたカッコづけ(値段やブランド)ではないということだ。



~ウサギさん(その2)~

こうしたことには上には上がいるもの。できない人を相手にどうだと言ってみたところで
虚しいだけ。虚しい勢いと書いて虚勢と言うがごとくなのだが、そんなことはわかって
いる。
やると決めたからにはプロではないのだからは言い訳にならない。オリンピックの競技
ではないが、リンゴを一個切るごとに自己ベストを更新していきたいわけだし、もっと早
くもっと綺麗に仕上げたいと欲も出てくる。いま現在の自己ベスト。そういう意味で、と
きどきこうしたものも載せておきたい。

もっか書いてる『TIMES UP]』など、もがく姿の象徴のようなもの。書きながら、ここは
いいけどここはダメだと意識しながら、SFと官能を融合できないかとやってみている。
リンゴのウサギの最初のイッコみたいなもので、おなかガタガタ、背中ボコボコ状態な
んだよ。

上には上がいる。

だからといって恥を怖がっていては次がない。リンゴのカットを練習しだし、顔見知りの
八百屋で古くなったクズリンゴを大量に買ってきて、百個~二百個~もっともっとと切り
まくった時期がある。プロでもないのにそんなことができてどうすると言われればそれ
までなんだが、やったからには一定レベルに達しないと気が済まない。

フルーツブログでもやるか? インスタグラムがいいかもしれんと考えてみたりする。
そのノリで小説だって書いていくということさ。わかるかな?



~ウサギさん~

僕がこのサイトをやってることを知ってる奴が何人かいる。前回、リンゴの丸剥きを載せ
たところ、そのほかカット術、どんなもんだよ? 載せたらいいだろ、と言われた。



おなじみ、リンゴのウサギさん。 おなかも背中も丸くてツルツルでしょ。

特殊な道具は一切使いません。ペティナイフだけで仕上げる。塩水にちょいとつけて
やると耳がピーンと立ってくる。背中の皮が薄すぎても丸まっちゃってダメなんだよね。

こういうリンゴを使えるパーラーは少ないよ。コマ切れフルーツのパフェなんか誰でも
つくれるってことですよ。(味は別として。おぅ!)

百均のお皿なのがイマイチですが、僕は料理人ではありません。←力説!



~喫茶店~

思い描くそれはカフェではない。喫茶店でいいのである。茶店(さてん)でいいのだ。
このページ、エッセイと言いながらエッセイらしいものを書いていない。小説はこうあ
りたいなんて書いたところで、読んで楽しいものじゃねーだろう。

たまにはエッセイらしく。 そんで、喫茶店。

カフェは嫌だし、その場に『バリスタ』などという正体不明のカッコマンはいないんだ。
珈琲なんて、うんちくタレてみたってわかる奴などほとんどいない。ブレンド珈琲を例
にしても、コロンビアベースで、深煎り浅煎り、同じ豆を混ぜてやれば、多種ブレンド
との区別がつく奴なんていないだろう。芸能人格付けチェックをごろうじろ。百万円の
ワインと2000円のそれを平気で間違える。そんなもんさ、人間なんて。

能書きタレてるバリスタごときに、これはできまい。↓

俺が切った。リンゴの丸剥きと言う。これは特別な道具を使わずペティナイフだけで、
剥いて切る。断面ツルツル。口の中で滑るように香り立つ。ほかにリンゴのウサギもあ
るんだが、こんなところでひけらかしてもしょうがいないのでやめておく。

だいたいバリスタ先生が、『ガムシロップ』と言ってること自体が笑ってしまう。いまどき
ガムシロップなどありませんて。砂糖の精製技術がなかったころ一度溶けたものが結
晶化してしまうためアラビアゴムの粉を混ぜてつくった。だから『ガム=ゴム』なんだよ。
黄色みがかって特有のクサミがある。いまのそれはシュガーシロップ。

えー、ちなみに僕はそっち系のプロではありませんよ。←力説! ←大声!

えーと、何を書いていたのやら。 おお、そうそう喫茶店だよ喫茶店。
暇な時間にちょっと寄って、ふぅぅぅと脱力。そのマスターは無口であり、お客さんの言
うことを黙って聞いてる。うんうん、うんうん。ちょっと笑って聞いている。
お客をもてなす気持ちをチャラチャラ態度ではなく、フルーツひとつの仕上げで表現
する。ですからね、思い描く喫茶店はフルーツパーラーでもあるわけで。
何なら柳刃でお刺身でもつくってあげようか? 珈琲に刺身の盛り合わせ。げーっ。

高校の頃、学校帰りに寄ったサ店を覚えているし、仕事でヘコんだときに寄った店の
匂いも覚えている。そういう店をいつかやりたい。夢なんですよ、それが。

疲れるんだよ世の中って。

うんうん、お疲れさん・・みたいな気持ちでお客を迎えるマスターでいたいわけだね。
基本的に弱い人間なんだし、寂しがり屋で困ってしまう。あのとき癒やしてくれたのは
喫茶店だったなぁと記憶をたどり、いつかはやってみたいと考えてる。

ちなみにヒントだ。

リンゴは塩水につける。色が変わっちゃうからですよ。でもそれだけじゃ時間が経つと
乾いてしまう。塩水につけたあと、薄い糖蜜を一浴びさせる。溶けた砂糖は固まらない
し、皮膜となってかなりの時間ツヤツヤしている。パーティなんかでお試しアレ。



~官能超説~

官能小説を書いていてサイトもやってるよと言うと、だいたいにおいて『へっ』みたいに
鼻で笑うわけですよ。そういうタイプは肝心なことに気づいていない。ある種類の小説
が書ければどんな小説でも書けるということ。文章を操れる人間なんだということだね。

そんじゃテーマを決めて書いてみるかい勝負しまっせと言うと、もっともらしい言い訳
タレて逃げていく。
まあいいや。逃がすもんかと追い詰めてやって怒りだすところを楽しんだりしてるから。

えー、しかし僕は、いわゆる伏せ字を使わないように仕上げている。出版業界の臆病
につきあって伏せ字にするぐらいなら、最初から言葉を替えて表現する。変えるので
はなく替えるのだ。代替ワード。
ジャンルは違うが『生首』というおどろおどろしい言葉を使う推理小説。それにしたって、
ホラーではないわけだから『切断された頭部』と書くべきなんです。生首など『○首』と
書いてほしいぐらい気色悪い言葉なんだが、それは推理小説というジャンルにこだわ
るからだ。時代劇の斬首であれば問題ない。

えー、つまり。

官能小説を超えるものを書きたい。官能超説。官能という狭義ではない、R18どころか
R20どころかRフリーを書きたいわけだよ。

えぃえぃ、おぅ!



~レズを書く無謀~

無謀ですよ。女とは何か、哲学者でもなければ到達できない未知を描くわけだから、
『ムリ!』の一言で終えてもおかしくない話。しかしだから奥が深い。
レズの同軸上にLEZDOMEがあり、さらにFEMDOMな世界もある。いずれにしても主
人公は女であり、その意味で男にとっては未知の領域であるわけです。

さてそんな中で意識するのは女らしさ。男言葉で『おらおら、しゃんとせんかい!』み
たいなS嬢はAVならともかくも小説としてなら僕は書かない。なぜならそこに男の醜さ
しか感じないからですよ。偶像だよと言われてしまえばそれまでなんですが、著者は
俺だぜ、ほっといてと言いたくなる。

常識的に女らしい人が、じつは豹変するギャップこそが面白い。穏やかでやさしい物
腰でありながら、ド変態だったりするからいいわけですね。男っぽさを書くんだったら
フツウのエッチ、フツウのSMでいいわけだから、あえて女王を登場させることもない。
魔女を化け物にしてしまってはつまらないでしょ。美女を狂わせるから魔女になる、そ
んなカンジがいいんだもん。

男だからレズは書けないのか? いえいえ、それは違うと思ってますよ。同性ゆえに
気づかない部分がきっとある。・・とまあ考えているわけですよ。うんうん。

レズ男子を描くこともある。ニューハーフという世界。ゲイとは違う。ホモでもない。心
が女であるならば、彼女らだって女なんだと思ってます。ニューハーフの彼を持つ女
の子を書いたことがありますが、それだってレズの延長線。
角度が違う。男と女の『女同士』の関係なんだと考えて、脳みそ腐りかけたことがある。
そこには男と男の『男と女』もあるからね。わからんもん、しゃーない。

だけどわかる。僕が違うというだけで気持ちはわかる。女装だってそのうちで気持ちだ
けはわかる気がする。それでいいと思うんですよ。わかろうとすることが、わかるへ至る
前提ですから。

あくまでも小説を書く上でなんですからね。リアルでないものから眸をそむけることも
ないわけで。好みで選ぶのは読者視点だ。著者であるなら好みがどうあれ否定して
はダメでしょうね。音楽家がジャンルを嫌っていては視野がすぼまるのと同じこと。
言葉そのものに至ってはミが嫌いと言うに等しい。ドレ○ファソラシド。うんダメでしょ。
画家が色を嫌っていては話にならない。

さっぱり、しかし、ねっちょり。みたいなレズ短篇をそっち系がご専門のサイトに投稿し
てみようかと思ってます。酷評されても、それもキャリアのうちですもん、悶々。ん?



~真似ないこと~

誰の作風を真似ようなんて考えたことはない。僕なり俺なりのデザインはないだろうか。
小説は言葉で物語をデザインしていく作業なんです。一口に珈琲カップといっても
さまざな色や形やサイズがあるように。短篇ならデミタスカップ。それと同じ濃さの文
章をマグカップに満たしたらとても飲めないものになる。長篇ならライトテイスト。つま
り普通に読みやすい文章でいいわけですよ。内容の勝負なんだから。

もちろん、さまざまなジャンルの小説を読んできましたが、アダルト系をがっちり読み
込んだことはない。そこらの古本屋で買ってみてパラパラ読んだら捨てちまう。
官能を下に見ているわけじゃなく、似たようなテーマ、似たような表現を書きたくない
からなんですね。
白紙から発想したい。そうしないと、あらゆるものが出尽くしていますから、端から『ど
っかで読んだぞ』ってことになる。

書いた結果がそっくりさんならしょうがない。しかしパクリはまっぴらだ。亜流でもいい
のですが、ただし徹底的に違うデザインにこだわりたい。だから悩む。悩むのが嫌な
ら新しいテーマを書けばいい。テーマが新しいなら作風にこだわることはないわけで、
めぐりめぐってフツウの文章になってくわけだね。 わかりますかね?

ここがわかってない人がじつに多い。キラキラした言葉を選びたがる。これは風変わり
なフォントを並べたおすのと一緒で、内容のなさを見た目(言葉)でごまかしてるだけ
なんです。センスなしってことですよ。
『だってそのときインスピレーション。おまえの涙にエモーション』・・みたいなヤツです。
多いんですよ、こーいうの。英文混じりなど最悪ですね。子供のときに有頂天で大人
になったら赤っ恥という典型のようなもの。言葉のブームは後からついてくるもので追
いかけてはいけない。

追いかけてはいけないから作風を真似ようとは思わないわけです。



~旅~

何事においても定型を嫌う僕は、できるなら電車を使いたくない。中学の頃はスポー
ツサイクル、高校でバイク、いまはクルマ。誰かのご都合で動くものが嫌いなんだし、
ふと接した何かに感動したり、それまでのイメージを払拭させたりできるのが旅の楽し
みなんだと思っている。

目指す先が決まっていても、それを目的のない旅にすることはできるだろう。目的どお
りの旅の意味というのは、あまりうまくはない。同じ場所へ行ったとしても発見できるか
どうなのか。定型旅行を嫌うからクルマということになるのだが、それにしたって、ただ
走っているだけでは同じ景色しか見ないだろう。
逆に、それがバスツアーであったとしても、同行エトセトラとは違う景色を見ることだっ
てできると思う。

まあ運転が好きだから、それでクルマということもあるのだけど、いずれにしろ、そこへ
行けばコレがあると想定できるものよりも、そうではない、目的のない=目的を決めな
い旅がいいと思うだけ。
クルマであっても所詮ルートは決まってら。高速道路のなりゆきじゃんか。時間だけは
自由になる。発車時刻に左右されない。ときどきキャンパーで旅をする人たちに出会
うけど、まあ羨ましい限りだね。
週末僕は街にいない。さらに僕は時計を持たない。そういうのって、いいと思うが、な
かなかそうはいかないわけで。

だから小説を書くんだよ。もっかTIMES UPで月面都市をつくっているし、宇宙人にも
出会ったことだし、本質の野獣となったLOWERたちの性欲に震えている。



~擬人化の妙~

小説ならではの面白みのひとつに『擬人化の妙』というものがある。猫の視点で文豪
が描いたあの世界。動物や物や、とにかく何でも、身の回りのほとんどすべてが擬人
化できる。

官能ニュアンスが欲しいなら女の子の部屋にあるものを考える。ぬいぐるみ。鏡。リッ
プや口紅。えー、下着を考えはじめると変態チックになるからやめておく。(笑)
とまあ何でもいいわけだけど、そのとき、あくまでそのモノの立ち位置にならないと擬
人化する面白みがなくなってしまう。
可愛くてならないぬいぐるみを抱いて寝る。そのときのぬいぐるみの気持ちを代弁し
ながら、男女の機微を織り込んでいくといいカンジになるわけですよ。

人対モノ。モノ対動物。モノ対モノ。組み合わせの妙もあり、ギャップがあるほど面白
くなっていく。月とスッポンと言うでしょう。その対比を人に置き換えていく面白さ。
考えてみれば、たとえば童話には必ずと言っていいほど人間くさいモノや動物や、あ
るいは星なんかが登場する。ハリポタにもスターウオーズにも擬人化がうまく組み込ま
れていると気づくだろうし。

ただし、猫を猿に置き換えるだけでは二番煎じ。我が輩は猿であると書いたところで
新しくはならないだろうね。そこがセンスなんだし、作家の右脳力が問われてくる。
憧れの女性がいて、男は一日だけ魔法で下着にしてもらう。それだけではアホかで
終わることも、ただしその魔法は命と引き替えということにすると俄然面白くなっていく。

擬人化の妙。

いまちょっと考えてみたりしてるんだ。



~売れる小説という発想~

コレ、ほとんど考えたことはないんだよ。売るために書いてるわけじゃねーや。でもね、
出版する以上、それでは失格。『売れる』という観点だっていい物語を書くときの基点
となる発想だと思うわけです。
官能のための官能からは離れようと思っていても、どこかにそのニュアンスは残して
おきたい。それが僕の基本なんだし、どうせそのシーンを描くなら躊躇なくエロにして
やろうとほくそ笑む。結果としてのR18ならかまわない。R18を書いてやろうとしている
わけじゃないんだもん。
007のボンドガール。ベッドシーンを克明に書くと成人指定。同じことをしているはず
なのにはしょるとR国民。それっておかしいと思いませんか?

そこで、さて。問題は導入部なんですよ。

僕はストーリー性もさることながらノーマルな男女を離れたいと考えている。常識的な
ゾーンの中で男と女が出会ったところで、そんなものは日常に氾濫する世界でしかな
い。直接的なところでは性的マイノリティ。SMや同性愛、自慰だったり自虐だったり。
また、ノーマルな男女の出会いであれば、いかに衝撃的なシチュエーションにするの
か。

売れる小説のポイントのひとつがそこにある。その世界への導入部をどうするか。S男
とM女がネットで出会ってSMする。これはリアルな出会いそのままで劇的が足りない。
ところが僕は、それって犯罪だよねというところを好まない。借金のカタにどうしたとか
というありがちなパターン。SMは変態歓迎しかし犯罪NG。そこが僕のスタンスなんで
す。

山で遭難。離島。因習のある村から出られない。そのへんどれも書いてきて、しかしハ
タと思うんです。
それはないだろう、荒唐無稽すぎないか? そう考えてありそうな世界を探すと、結局
のところ劇的が足りなくなる。
そのジャンルそれぞれの劇的を探す。導入部さえ見つけられればスイスイいけるわけ
ですが、そこに『売れる』というコンセプトを足してやると、亜流でいいから『ひどい』とか
『可哀想』とか~復讐ものなら『ザマミロ』といったニュアンスが欲しくなり、ゆえに犯罪
チックになってしまう。亜流に徹すればそれもアリなんでしょう。

僕が本を買うとする。そう考えることが『売れる小説』という観点なんだと気づくわけです。



~キャスト=配役の妙~

007は、ジェームズボンドが死んだらおしまいなのだが、手法としては次世代007を
登場させるテもあるだろう。ジェームズボンドである必要はなく別人の007でも物語は
成立する。レディ007でもいいだろうし。

スターウオーズを物語を書く側から見ると、ダースベイダーを殺してしまったのが最大
の失敗だったね。いかにも惜しい。ライトサイドの配役はつまりジェダイなので、こちら
は後継者をつくっていくことができるが、ダークサイドがむずかしい。
悪の権化=象徴のような存在がいないと物語に軸がなくなる。ダースシディアス→ス
ノークと続いたボスだが、こちらはどうにでもなる。ヨーダが『フォースの冥界』とやらか
ら戻ったように『ダークサイドフォースの冥界』をつくっておけばいい。
その同じ手法でダイスベイダーを復活させることはできるのだが、殺し方もよくなかっ
た。息子の情にほだされた父親の死になっている。これでは悪の象徴とは言えない。

カイロレンには重さがない。若きレイはそのままに敵方にベイダーが存在すれば骨の
太いスターウオーズとなったはずだ。

主役は脇役がいてこそ引き立つものだし、脇役さえ固まれば主役などはどうにでもな
ると言える。カイロレンはダースベイダーとなれるのか? 次作の興味がそこにある。

さて主役だ。007、ジェダイ~こうした傘があれば語り継いでいけるのだが、対してこ
れが個人の場合~インディジョーンズなどがそうだが、主役を殺してしまうとジ・エンド
ということになる。(ハリソン・フォードである必要はないんだよ)
近頃はとりわけ、こうした視点で物語を観るようになってきた。最後のジェダイを観てき
たが、スターウオーズは、旧スターウオーズの冠を脱ごうとしていると感じた。なぜか?
ダースベイダーを殺してしまった苦し紛れの印象がぬぐえない。



~誰だよ、おまえ~



最後のジェダイに登場する新キャラ、ポーグである。こいつが気に入ってデスクトップ
の背景にしたんだが、拡大するとかなりキモイことに気がついた。

最後のジェダイと言っておきながら次への布石ができている。ライトサイドのレイ、ダー
クサイドのカイロレン。チューイもいるし、BB-8もいる。
レイアおばちゃん、ソロじいさんとルークじいさんがいなくなったし、何よりダースベイダ
ーがいないのが寂しいのだが、ヨーダなんて霊となって登場している。ヨーダに孫がい
たとか、まあどうにでもなるだろう。

スターウオーズは終わらない。

最後のジェダイで、ジェダイに伝わる書が燃えてしまった。フォースはジェダイのもの
ではないと言っている。次への布石はいくらでもあるわけだね。

だけど、宇宙戦争という未来世界の中で、なんでまたチャンバラしなければならんの
か。スターウオーズは戦う騎士の物語であるからだ。
しかるに、『フォースはジェダイ(騎士)のものではない』と言う。シリーズ末期のご都合
主義がはじまっていると感じるね。もはや何でもアリ。次作次第ではポシャると思うよ。

しかしポーグはカワイイ!



~TIMES UP~

これは実際にシミュレーションされている太陽系脱出計画がもとになる物語なんです
が、中学校の理科を思い出してしまいます。
酸素はどうすればできるんだっけ? おお、そうだ! 水を電気分解するんだったな
と思い出すわけですが、酸素をつくりだすのはそれだけじゃない。いまさらなんでそ
んなことを勉強にゃならんのよ。笑っちゃうぜ。

しかしです。温暖化による海水面の上昇とオゾン層の破壊は現実に起きていること。
オゾン層の破壊は、いますでに緯度が上がれば危険なレベルであるわけで。南極大
陸はアウト。北の海で漁をするとき、これも危険だ。

太陽系の外へ旅立つとき地球からの補給は断たれてしまうし太陽の恩恵も得られな
い。必要なもののすべてを自前で調達しなければならないわけですが、えー、たとえ
ば水。水さえあれば酸素も水素もできるわけで、何をおいてもなくてはならないもの。
人は寝るとき寝汗をかくでしょ。そうした湿気さえも無駄にせず回収して水に戻して使
うんだとか。尿などはもちろん再利用。不純物を除けば純水となって生まれ変わる。

光年という距離を旅しようとすると気の遠くなる年月がかかるわけで、何世代もかけて
行かなければなりません。とにかく資源はムダにできない。人間の体は資源の塊なん
だそうで、そうなると・・まあ、どうぞ考えてみてくださいな。水分、タンパク質、カルシ
ウム、金歯・・気色悪いのでここらでやめておきますが、種の存続をはかるとき、そこま
でしなければならないようです。

こういうことを本気で考え出すと人間おかしくなりますね。SFだからそこまでのリアリテ
ィは不要ですが、現実にそういうことが起こったとき、えらいこっちゃと思うわけで。
物語の中にもありますが、下着もそのうち。汚れても洗濯できない。燃やせば酸素の
無駄づかい。そこらに捨てれば男が拾う。ん?

で、そうなると、もっとも効率がいいのが裸で暮らすこと。原始人のファッションに戻る
のがもっとも資源をムダにしない。腰巻きだけの裸です。最先端の宇宙船に乗り込む
原始人てなカンジでしょうか。

物語は、これから荒廃する地球を描くところへいく。とにかく調べるのがタイヘンなん
だよ。官能小説のようにへらへら先へは進みません。



~地球滅亡のシナリオ~(訂正)

どうすれば地球は滅ぶか。ダークファンタジーを考えていてまず思い至ったこと。巨大隕石の衝突。これはアルマゲドンそのほかすでにある。核戦争。これも手垢だ。未知のウイルス(人造ウイルスでもいいが)による感染爆発。バイオハザードほか、これもまたよくある手法。エイリアンの来襲。インディペンデンスデイなどなど、まさにSF亜流。そのほか自転が止まる。月がなくなる。太陽の崩壊~etcといろいろあるわけだが、ここでハタと気づく。地球滅亡とはすなわち人類の滅亡であればよく、地球が吹っ飛ぶ必要はないということなんだね。

さて、スターウォーズを見ていて愉快なのは、宇宙に対してテキトーであることだ。ソロが乗るファルコン号はハイパードライブで光速の1.5倍の速度が出せるそうだが、(すげ!)、ちょっと待て。
太陽系にいちばん近い恒星は、ケンタウルス座のアルファ恒星系、その距離およそ4.3光年なのだが、光速の1.5倍の速さで飛んでも3年近くはかかってしまい、ソロが言う『銀河中を旅した』はウソっぱちもいいところ。天の川銀河を横断するだけでも10万光年なんだから、光速の1.5倍程度ののろまなファルコン号では、太陽系そばの『ちょっとそのへん』までしか行けないだろう。(笑)

まずはこれを見てほしい。


地球は太陽の周りを時速およそ10万キロで公転しているが、太陽を中心とする平面円盤の上を回っているわけじゃない。太陽そのものが天の川銀河の中で秒速217km(マッハ638!)のスピードで移動し(公転し)、惑星はそれを追いかけてスパイラル状に『太陽の周りを公転している』のが真実の姿。
つまり太陽系そのものが銀河中心の周りを一周およそ10億年をかけて(マッハ638の速度で!)公転しているわけである。(10億年というのは僕の資料の読み違えで、およそ2億2600万年をかけて一周するそうです。またしても赤恥でした・・)

ちなみに、その太陽も銀河の中でスパイラルを描いて周回している。それがコレ。


こうしたことが宇宙の摂理なのだが、そこにとらわれすぎるとファンタジーは書けない。ヨーダは900歳だそうだが、ファルコン号の速度でも、たった900年で行ける距離など限られているのである。
スターウオーズは太陽系のすぐそばの銀河のスミっこで起きたドラマなのか?? 
ファンタジーはリクツではない。SFとは、SよりF=フィクションが大切なのである。うむ。



~R18というナンセンス~

公序良俗に反すると言う。まず、それと性表現とは別物なんだし、文章表現において
公序良俗に反するとは、どこまでを言うのかなんて説明できる人はいないだろう。
モロ画像は日本ではNGだが海外では問題ない。しかしそれを言うと日本は別なんだ
よ! という意味不明の答えが返ってくる。

なるほどそうか。だから海外で飲酒規制が厳しくなっても日本は別だとほざくわけだ?

カナダでは野球場でビールも禁止、フランスではワインの売り上げが半減し、アメリカ
では花見酒が禁止。世界では酒害が問題になっている。麻薬アルコール取締局なる
ものがあるわけですよ。麻薬=アルコール。わかる?
こうした動きは世界中にひろがっている。屋内で飲めばいいということでなく酔った状
態で外に出るのも禁止なんです。

なのに日本では『それでは日本的公序良俗に反するから飲めや歌えやゲロ吐けや、
俺たちみんなのコンセンサスは世界最強!』・・ってことなんだ? 
ほうほうご立派! そんなことでは、とても先進国とは言えませんな。

何が決められているかではなく何が正しいかで行動すべき。表現者は思いのまま自
由に書き、読み手が自分なりのフィルターで選別すればいいだけのこと。
R18なんてナンセンスきわまりないし出版社がまったく勝手にビクビクして自主規制
しているだけのもの。こうした言論の締め付けこそが憲法違反なのですよ。

しかるにこの国では『アダルト禁止』をうたえば高尚であるかのような錯覚に支配され
てしまっている。そしてそいつら「見れない」なんて誤用を平気で使う連中なんです!
芸術性のあるものとそうでないものとも言うが、そこで線引きしようとすること自体がお
かしい。

表現すべては、Rフリーが正しい。

しかしそこには言葉のセンスというものがある。あえてモロ表現することがセンスである
場合があるということですね。

ちなみにアルコール腐敗汁=酒は、消化器系を主体とする発がん率を4倍にすると
いう発表がありました。
煙草は医者がわーわー言うが、酒は医者よりも警察がわーわー言う。(声が小さい!)
それでもどちらも、吸いたければ吸い、飲みたければ飲む。だったらエロだってそれ
でいいのと違いますか?



~書くということ~



この画像が気に入ってデスクトップの背景にしている。太陽系は英語でソーラーシステムなのだが、そこらの屋根に載ってるヤツもソーラーシステムなんだろう。

さて。サグラダファミリアへ行ってきたという人がいる。マチュピチュを見てきたという人もいるだろうし、アフリカでライオンを見たという人もいる。それはそれで素晴らしいことなんだろうが、僕は、何度か銀河を旅したし江戸時代にはしょっちゅう行った。霊界それに鬼界にも友人がいるし(白湯鬼さんとミブという鬼なんだが)、地底人にも会ったことがある。うん。
正義の兵士となってマシンガンをぶっ放したこともあるんだぜ。うん、ンダダダダダとぶっ放したんだ。

文学と言うし文芸とも言うが、もの書きの楽しみは、誰も行ったことのない誰も見たことのない誰も感じたことのない世界が描けることだと思うんだ。いわば『文楽』=文章を楽しむことだよ。愉快がって書いてみる。

すでに存在する場所へ行った見た感じたというリアルより、いまはまだ存在しない創作の宇宙へ飛び立っていくことのほうが僕の脳にはキモチいい。それが書くということであり、僕は『描く』と書いて『書く』と読むことをしたいと思っている。

官能小説を描くとき、男の快楽なんて知ったこっちゃなく、つまり女を描いているわけだ。女というもの、これほど近くにあって宇宙なものもないだろう。ちっともわからない。男にとっては地球に棲む宇宙人。『セチ=地球外生命なんたら』なんてどーでもいいから、望遠鏡を女に向けてみたいもの。倍率があがってくるとサンの正体が見えてくる。この水爆女め。おっそろしい世界じゃないか。憧れる宇宙空間では窒息責めにあうだろうし冷え切った世界じゃないか。綺麗に見えるものこそ恐怖なのだと気づくだろう。

そうなのか? それと女は一緒なものか?
たいして変わらん。怖いものだという認識だけは持っている。

この画像。僕なんかきっと火星の外側のアステロイドベルト(小惑星帯)に紛れ込んで水爆女を遠巻きにして周回する石っころにしか過ぎないだろう。パリパリに凍ってら、うん。



~創作しきれないつまらなさ~



早くも大河が批判されているが・・創作しきれない時代劇の難しさを感じるし、そこが
僕が書く時代劇に足りないところだろうと思い至る。

西郷どんの初回、妙円寺詣りでそれぞれの郷中に分かれた子供たちが褒美の餅を
争うシーンなど、ハリポタを見ているようだった。アナキン・スカイウオーカーは妙なレ
ースをやった~と、まさに手垢だ。

しかしです。

まず大河ドラマは歴史ドラマではないということ。事実を忠実に再現したところでドキ
ュメンタリーにしかならず、教科書をひもとくようで面白くはならないだろう。
幕末は形を変えて何度も描かれていて、ちょっと前のことを思うだけでも『篤姫』を見
ていれば西郷隆盛のことはわかる。『坂本龍馬』もあったことだし、なおさらだ。

ただしかし、大河ドラマと銘打っておきながらホームドラマになってしまっているのは
いただけない。配役を見ても万人受けする役者を揃えすぎ。大河の主役だけは手垢
のついた役者をもってくるべきではないし、その裏舞台を見せすぎてはいけない。

けれどそんなことより、ちょっとは物語を書く立場で思うと、大河ドラマのように時代を
繰り返す物語の難しさにいきあたる。厳然とした事実があるわけだから創作にもほど
があり、ギャップをうまく創りだせない。物語は創作度合いが高いほど新しいものにな
っていく。物語のパターンなどは限られていて、歴史物などまさにそうで、存在しなか
った人物を突然加えても陳腐になるだけだし、なかった事実を盛り込みすぎると嘘っ
ぱちになってしまう。

薩摩弁が難解すぎてわからない。これは江戸の言葉をそのまま書いてもわからない
という一例のようでもある。
西郷どんの子供時代などほぼ創作なんだろうが、描き方ひとつでホームドラマに成り
下がる。下級武士の貧しい家族で和気藹々。情緒べったり。島津斉彬との出会いに
しても、いかにも嘘くさい。オーバー劇的。茶番劇。

しかしそこに読まれる小説のヒントがあると思うんだ。重いより軽い。濃いより薄い。真
顔より笑顔・・。必殺仕事人や水戸黄門など、時代考証とは無縁な、あれほどいい加
減な時代劇に人気がある。
歴史を学ぼうなんて思っていない。なんとなくその時代が匂い、わかりやすくて楽しめ
ればいい。

その点で僕が書く『くノ一もの』など100%作り話。なのに時代考証をからめたがり、結
果として中途半端になっている。『白き剣』を推敲するとき、もっと思い切って創作しよ
うと考えたしだい。大河ドラマの原作ではなく、むしろ必殺仕事人の世界に近いのだか
ら。



~日常知識のあやふや~

小説を書きはじめた頃のものが、なぜダメかというと、文章の上達もさることながら、そ
れ以上に言葉に対する感受性~慎重さ~できあがった作品を見る目が変わっていく
からなんですね。当時の傑作がダサク(=駄作)になる。

日常会話で知ってるつもりで話していることをうっかり書いて、後になって赤恥なんて
ことはしょっちゅうなんだし、日常知識のいいかげんさ、自分の無知さ加減に気づくと
きがくる。言葉そのものへの感性も変化していく。『目』などいい例で、あるとき『眸』と
書きたくなって、またあるとき『眼』がいいかと思えるようになってくる。こだわりがあるか
らそうなるのですが、ずっとずっと後になって読み返してみると、つまらないこだわりだ
ったと気づくんですよ。目でいいじゃん。文章の流れで読み手がそう理解してくれれ
ばいいと思うようになる。

面持ち=おももち=面色とも書く。顔色のニュアンスを持たせたくて面色と書いてみた
りするわけで。こういうことは言葉の世界には腐るほどあり、そのときよくても後になって
読み返してみたときに、たまらなく陳腐に感じたりするんです。

最悪なのが会話。誰の言葉かわかりにくい。これでは読み手にとっては混乱するだけ。
二人の会話ならともかくも大勢の人物が話していて、誰の言葉かを特定していかない
と物語にならない。
「狂気はナイフです」
(うわ!↑ 狂気だって! 言ってるそばから誤字ですもん。凶器です)
 と、巡査が言った。
「首を絞められた痕跡も認められますね」
 と、検屍官が言った。
「よし殺しだ、他殺の線であたろうじゃないか」
 と、警部は言った。
ダサイといえばそうでしょうが、こうしないといかんわけです。しかるに初期の小説の中
で、発信者があやふやになってしまった箇所を見つけると、なんだかもうがっかりしち
ゃう。このド素人! ヘボ作家! と自虐に陥り、ふて寝してしまうわけでして。

創作熱にうなされて第三者の目を持てない。すべてはココ。書いてる本人にしかわか
らない。草稿ですからとごまかしている。本来未完成なものを載せてはいけない。うん。
よしサイトをやめようということで、逃げてるだけってコトになる。
今年はそのへんから改めていこうと思っている。草稿であっても、あるレベルを保って
いきたい。
せっかちで、おっちょこちょいな僕ですので、とにかく先へ行きたがる。なもんで、後に
なって推敲を加えると一話が倍ほどにも長くなることがある。情けない限りです。

それと過去作になればなるほど漢字が多いし、ありきたりの漢語を使って書ききれたと
思っている。会話中の「・・・」の多用。「あっはっは」の多用。そのほかもろもろ穴ボコ
だらけ。小説のむずかしさにアタマを抱えておりまする。



~孤独死は孤独なのか~

いきなり何を言うかと思う人も多いだろう。次作のアイデアだ。地球滅亡の時限装置を
宇宙に仕掛けた老人の物語。舞台は50年後。

さて、老人の孤独死が問題視されているが、孤独死とはほんとに孤独なものなのか?
何でも情緒で発想したがるこの国では、単身生活者の死を、すなわち孤独死として、
なんのかんのと言いたがる。しかしこれ、きわめてステレオタイプな思い込みと言わざ
るをえないだろう。

いずれにせよ死ぬときは独り。老人にとって問題なのは、家族の中にいても邪魔者扱
いされ、社会にあっても、さもスクラップのように扱われることだろう。周囲に近親者が
いてくれることよりも、ゆえに気を使い、肩身の狭い思いで生きなければならないこと
の方がはるかに辛い。単身で好き勝手に暮らし、あるときひっそり消えていく。老いて
なおコンセンサスを要求されてはたまらない。

こう例えてみればいい。社会の中の独居老人と考えるから『孤独』と思い込むのであっ
て、たとえば群れを離れて山へ旅立つと考える。人間社会のわずらわしさのない大自
然の中に独りぽっち。しかし老人は言うだろう、面倒だからついてくるな、いいかげん
ほっといてくれないか。おまえたちとのつきあいに疲れた、独りにしてくれ!

孤独と言うが、若者ならいざ知らず、その歳となった人々は老い先を見定めて生きて
いる。人生の最期ぐらい束縛されない独りでいたい。・・と、こうしたものが孤独死なの
だが、もうひとつ、もっと悲惨な孤独がある。人類に失望した、壊れていく地球に失望
した。そうした妄念にとらわれた老人が、地球を道連れに孤独死を選ぶ、という物語。

地球の最期を見送るために、その男は月面から青い地球を見つめている。



~シークレットチーム GOBLIN~

この物語はいかにも粗く、もう少し緻密に書くとぐっとよくなる。草稿をそのまま載せて
しまったのでしょうがないけど、長篇とはそうしたもの。書きながらディティールに気を
取られているとペンが遅くなって挫折する。ともかく通して書ききって後から推敲して
書き直していくもので。その推敲ナシに草稿をそのまま載せるという大失敗。(笑)

ゴブリンには、そのさらに以前に書いた『デビルグレイブ』という前身があり、それと新
構想をミックスしてできたもの。似たような新作を書くとすれば、この頃よりはるかにレ
ベルの高いものが書ける自信がある。

超法規の使命を与えられた選りすぐりのファイターたち。悪に対して魔物となれる人
の強さと、正しい者への情にあふれた三人のアクション小説。エッチシーンをもう少し
足してやるとR18。そんな感じかと思います。



~三久利の嵐~

エッチのあとさきのフォルダに長く眠っていた『三久利の嵐』を、書いた当時のまま
移動した。時代劇を書きはじめたごく初期のもので、例によって推敲なしの書きっぱ
なし。冒頭を読み返してみるだけで、いま思えばすっとこどっこいなミスをやらかして
いる。過去作を載せるのはシュウチなのだが、こういうものを書いたことがキャリアと
なっているんです。

女忍者のくノ一は、『女』という字をバラして『く』『ノ』『一』となるのだが、三久利の嵐
を書いた当時は、間の『ノ』が、どうにも斜め記号の『/』に見えてしまって読みにくい
のではないかと考えて『くの一』と書いてしまった。明朝ならまだしもゴシックでは、ま
さにナナメ。
こういう初歩的なミスを赤恥と言うのです。本意を壊してしまってはお話になりません
し、僕自身の考えがたりなかった。頭から書き直したいぐらいなんだが、いかんせん
大長編ですので、これはこれで教訓として残しておきたい。

さて、忍者と言えば甲賀、伊賀、根来、風魔~と誰もが知る流派があるわけですが、
戦国時代も初期の頃、そしてさらにその前の時代には、忍者の源流とも言える戸隠
流なんて流派があって、そこから無数に枝分かれしていった。記録に残るだけでも
七十余流。無名の流派にいたっては武将の数だけ存在したと言ってもいい。

忍びとは武家の下層に組み込まれた者どもであって、忍び装束を着込んで敵と戦う
武闘派はごく一部。スパイとして潜り込むわけだから、見た目はそこらの連中と変わ
らない。そのへんから調べていって書き込んだ思い出があるわけです。

このほか僕は、ベレッタ92Fなんて拳銃が登場するアクションもの、戦闘ヘリが敵を
なぎ倒す壮絶なものと、400字詰め原稿用紙1000枚をこえるものを二作。~500枚
程度のものなら何作も書いてきていますが、時代劇は三久利の嵐あたりが初期の初
期作。アラの目立つものですが、ま、読んでみてくださいね。

潤文学への源流となったものも載せていくから『潤文学書院』なんだと思います。





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